第43回 入試現代文入門・③「AではなくB」
前回は、「筆者の言いたいこと」を示す言葉の〈サイン〉とは、日本語の「型」とでも言うべき自然な表現であること、しかし、それを意識することが、内容的に高度な評論文を限られた時間の中で読み解くのに有効であることを述べました。内容は読み間違いますが、〈サイン〉は裏切りません。「国語は読書量で決まる」と言われることがありますが、言葉の〈サイン〉に着目した読解によって、その不足を補うことができます。一つ一つ確認していきましょう。
今回最初に取り上げる〈サイン〉が、前回も例として挙げた「AではなくB」の形です。いったん否定して後ろに言いたいことを持ってくるのは、日本語の呼吸のようなものです。日常の会話だけでなく、評論文でも多用され、かつ、解答に直結します。次の文はセンターで出題された文章の一部です。「AではなくB」の形に注意して読んでください。
文学的な経験は、単に具体的な、一回限りの経験なのではなく、それを通して当事者の人生の全体、つまりその人の世界の全体に対する態度が現れざるをえないような経験である。梶井(基次郎)はなぜ「レモン」の経験に執着するか。それは人格そのものが具体的で特殊だからである。(加藤周一『文学とは何か』)
ここで論じられている梶井基次郎の代表作『檸檬』は、丸善書店で画集の上にレモンを置いて帰ってきた「私」が、そのレモンを爆弾に見立てて爆発するのを想像するという作品です。そこには、病弱な身や借金からくる「私」の鬱屈した心理が投影されています。それは、A「単に具体的な、一回限りの経験」ではありません。B「その人の世界の全体に対する態度が現れざるをえないような経験」なのです。AとBの関係をしっかりと押さえてください。
実は、センター試験では、本文のこの箇所が解答の根拠となる問題が用意されていました。正解の選択肢のみをご覧ください。
問題 筆者は「科学も、文学も、世界の全体にかかるものである」と述べているが、なぜそういえるのか。その説明として最も適当なものを選べ。
④ 主婦や子供の日常的経験は、限られた類似の経験とのみ関連するのに対し、科学では抽象化された対象が世界の全体に組み入れられ、文学では具体的で特殊な経験が世界の全体にかかっていくからである。
この箇所には「主婦や子供の日常的経験」および「科学」への言及はありませんが、「文学では具体的で特殊な経験が世界の全体にかかっていく」という記述は、B「その人の世界の全体に対する態度が現れざるをえないような経験」とズバリ合致していますね。「AではなくB」の形から、この箇所を根拠に適当と判定できるわけです。
このように、日本語の「型」としての言葉の〈サイン〉に着目すれば、「筆者の言いたいこと」を確実に押さえることができますし、選択肢の正誤も判定できます。「ではなく」の後に言いたいことがくるなんて当たり前と流さずに、意識して線引き・マークをすることが、読解の精度を高める確実な方法です。
※この記事の内容について、詳しくは『新ゴロゴ現代文』〈基礎~必修編〉〈共通テスト編〉で解説しています。