前回は、要約・言い換えの「つまり」について、機械的に後の部分がまとめと機械的に処理するのではなく、前後の具体と抽象の関係を見極めるべきことを述べました。筆者の主張は〈抽象化された内容〉の方ですから、そこを押さえることが肝心です。
 ところで、現代文が苦手な受験生には、抽象化された部分は分かりづらいので、具体的な部分だけ押さえるという人がいますが、それでは筆者の主張にたどりつきません。(具体的な内容)を踏まえて、そこから〈抽象化された内容〉を理解するということが必要です。
 なぜ、筆者の主張は〈抽象化された内容〉の方にあるのでしょうか? それは、「抽象」が具体的なものから共通する要素を取り出してまとめることであるということと関係します。(具体的な内容)というのは、その具体的なものしか言い当てることができません。これに対して、〈抽象化された内容〉は、共通する要素を含むものすべてに該当します。1つの記述であらゆることを説明できる。だから、筆者の主張は〈抽象化された内容〉の方にあるのです。
 入試現代文入門の最初の記事(第41回)で、文章というのは同じ密度で書き進められるということはなく、「読解力」のある人はメリハリをつけて読んで「筆者の言いたいこと」を的確に捉えることができる、というお話をしました。メリハリを言い換えれば、具体と抽象ということです。(具体的な内容)を流して読みつつ、〈抽象化された内容〉に入ったらギアを入れる、という読み方ができるようになってください。
 さて、今回扱う言葉の〈サイン〉は「たとえば」です。もちろん、具体例が始まることを示します。しかし、(具体的な内容)がずっと続くということはありません。どこかで〈抽象的な内容〉に切り替わるはずです。そこを見落とさないようにしましょう。
 入試現代文で最頻出の筆者の一人である鷲田清一の文章からの例文です。

たとえば、身体はそれが正常に機能しているばあいには、ほとんど現われない。歩くとき、脚の存在はほとんど意識されることはなく、脚の動きを意識すれば逆に脚がもつれてしまう。話すときの口唇や舌の動き、見るときの眼についても、同じことが言える。呼吸するときの肺、食べるときの胃や膵臓(すいぞう)となれば、これらはほとんど存在しないにひとしい。つまり、わたしたちにとって身体は、ふつうは素通りされる透明なものであって、その存在はいわば消えている。(鷲田清一『普通をだれも教えてくれない』)

 最後の一文に「つまり」とあることに注目してください。「たとえば」と「つまり」は呼応して用いられます。「たとえば」から(具体的な内容)が始まり、「つまり」で〈抽象的な内容〉に落とし込まれるのです。たしかに、体調が良いときは身体が意識されることはない、つまり、「その存在はいわば消えて」いますね。
 評論文は具体と抽象のくり返しで成り立っている。読む際にはこのことを意識してください。

※この記事の内容について、詳しくは『新ゴロゴ現代文』〈基礎~必修編〉〈共通テスト編〉で解説しています。